和紙はいつからあるの?〜紙について⑤〜 | 文房四宝 雲岑堂

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和紙はいつからあるの?〜紙について⑤〜

和紙の歴史について

学校で習ったエジプトのパピルスが恐らく最古の紙であろうが(紀元前3000年頃)、折り曲げに弱い、湿気に弱くカビが生えやすく劣化しやすい、時間の経過とともに酸化しもろい、原料のパピルス草の入手や加工に手間がかかり高価となる。そのため普及しなかった。その代わりに使われたのは羊皮紙と言って羊の皮を加工したものである。これでも中国由来の紙が千年以上持つのに比べ条件が良くてもせいぜい千年しか持たなかった。西洋に紙が普及するのは13〜15世紀なのに比べ、中国では紀元前2世紀頃(前漢時代)紙が発明され、後漢時代(25〜220年)のに本格的に製紙が始まったという。105年頃蔡倫が製紙法を改良した。

日本に伝わったのは610年頃高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が紙・筆・墨などの製法を伝えたと言われている。それより以前の3世紀中頃から作られていたのではないかとの説もある。いずれにしろ僧・曇徴のことは『日本書紀』に記述があり、「五経」を知り、彩色および紙墨を能く作り併せて臼も作ったと書かれている。 

また日本で現存する年代のわかる最古の和紙は正倉院に残る美濃国、筑前国、豊前国の戸籍用紙で、最古の写経は西本願寺蔵の『諸仏要集教』で立派な写経料紙に書かれており、西晋元康6年3月18日(296年5月7日)の銘記があるそうだ。

製紙技術の伝来から100年程経過して本格的な紙の国産化が始まった。『正倉院文書』には天平9年(737年)には美作、出雲、播磨、美濃、越前などで紙漉が始まったとある。『大宝律令』により『古事記』『日本書紀』や各地の『風土記』編纂のため図書寮が置かれ、そこでは紙の製造と紙の調達も管掌した。図書寮の下に「紙屋院」(かんやいん)と「紙戸」置いた。山城国に50戸の紙漉専業者を置き租税を免除して官用の紙を漉かせた。

「天平11年(739年)には写経司が設置され、写経事業のため紙の需要が拡大する。『図書寮解』の宝亀5年(774年)の項のよると、美作、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上総、武蔵、美濃、信濃、上野、下野、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江が挙げられている。ただ、まだまだ数が少ない高級品で日常的に使用されることはなく、一般的には安価な木簡が使用されていたのである。

奈良時代の宝亀元年(770年)に作成された百万塔陀羅尼が現存する世界最古の印刷物であり、国家の仏教との関わりが深かったことは多くの経典や紙胎仏が作成されることとなったのである。

平安時代になるとそれまで製紙のことを「造紙」と称していたのを「紙を漉く」と表現するようになった。『源氏物語』には唐の紙より上質な紙が漉かれていたことが記されている。

王朝文化が爛熟すると白一色の紙より次第に様々な色や性質を持った紙を使用するようになった。武家政権に移行すると紙の消費層は公家や僧侶から武士にと広がったが同時に厚くて丈夫な実用的な紙が求められるようなり播磨の杉原紙や美濃和紙が流通したのである。また書院造の明かり障子に紙が使われるようになったが紙はまだまだ貴重品であった。

江戸時代に入り識字率の上昇に伴い庶民にも紙が使われるようになり、各地でわしが生産される。三椏などの新たな原料により生産も拡大していったのである。(以上ウィキペディアの和紙の「和紙の歴史」の項を参照しました。)

この記事の著者

雲岑(Un-shin)

1964年生まれ。学校の習字の時間は苦手だったが、小学生の時分よりくずし字等に興味があった。大学卒業後都内某信用金庫に勤務。令和に入り、写経をきっかけに書道に興味を持ち、コロナ禍の自宅待機の機会に独学で書道に没頭し始め、硯で墨を磨ることが楽しくなる。2023年定年を前にサラリーマン生活に別れを告げ、同年9月より書道用品店を開業する。残りの人生を書道具の販売を通して書道文化の継承発展に寄与したいと考えている。

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